研修医の声

終末期ケアとアドヒアランス

※アドヒアランス 患者の理解, 意志決定, 治療協力に基づく内服遵守

・・・とある日の外来①

患者さんはとあるがんを持つ超高齢者

以前緩和放射と疼痛管理目的に入院し、オピオイドの調整もうまくいき痛みもなくなったと笑顔で退院された

いつも笑顔でかわいくて癒し系だった

私も久しぶりに会えると楽しみで、緩和ケアチームI先生と「今日もいっぱい笑わせて貰えますかね」と談笑していた

レスキュー全然飲んでないよ!本当に効くんだね

患者さん自らがつけてくれる痛みの評価シートをみながらほっこり

「全然痛くない」

「全く飲まなかった」

その時、先生には言わなかったが...私は「全然」「全く」という表現に違和感を覚えていた

ゼロって無いだろ、あれだけ痛がってたのに...

さて、実際に患者さんとの対面

いつもの笑顔だが、いつも以上にシャキッとしている

「いやぁ、ほんとに痛くなくなったよ。全くいらなくなった。ありがとう。」

患者さんにそう言われると私たちも嬉しくて嬉しくて...

本当に効いてよかったなぁ、そう感慨に浸るだけで今日という一日を過ごせたことに喜びを感じる...

「先生...」

と、おもむろに緩和ナースが口を開く、

「なぁに?」

久しぶりに上機嫌なI医師

「...ベースの残薬が多いです。」

えっ...

「いやぁ、眠いからやめたんだよ。それに痛くないし。もう数日も飲んでいね」

あっけらかんと語る患者さんの言葉尻を聞かぬうちに

「はああああああああああああああ、フリーズした」

私の指導医は、フリーズしたという言葉の通り、フリーズした

手が止まり、口が開き、全てのシナプスが投げやりになったようだ

オピオイドの突然の休薬による退薬症候の有無が焦点となる

全身を上から下まで観察し、細かく問診を繰り返していた

おおよそ3日後までに最大、1週で消失するようだが、今のところ全身状態が大きく狂うようなものはないよう

ひとまずは安心だが...いくら痛みが取れたからといってすぐさま全て止めることを想像できたろうか

入院中は確かに傾眠傾向があったし、痛みが取れたところで傾眠も顕在化してきた為に止めたい気持ちも理解できる

しかしてそれにしても急すぎる、その日の外来そのものが痛みの評価をする為のもの

オピオイドは危ないけど正しく使えば安全な薬、という認識はあったはずなのにそれなら一報あってもいいのではないか

といっても非医療者であれば誰だって難しいものだろうが...アドヒアランスが問題となることは退院前には全く予見できず、イレギュラーであることには変わりはない

I先生のフリーズは、それを物語っていた

今度からはちゃんと電話してから、ね

と、気弱に声かけする先生を尻目に、

「確認してくれるとありがたいんだけど」

とそれよりも気弱に返す患者さん

流石にそんなのしてないでしょう、と思っていたが

「分かりました。定期的に電話して聞くからね」

と即答する緩和ナース

荘内病院そこまでしているの...?とむしろ過剰なサービスなのでは、と思ってしまう程だが、後々にI先生に聞くと、「緩和ケアチームの看護師さんが頑張ってくれてるから成り立つんだよ」と教えて下さった

しかして、そんなんがまかり通るなら、東京だとかそうした人口が多い地域が20年後に、今の庄内地域と同じような人口分布となった時どう対応していくのだろうか

こう質問をしてみた

「自宅での孤独死が増えていくだろうね」

背筋が凍った

どうも私がレジナビで語る「20年後の日本」を地で行くここ鶴岡の緩和ケアは、超高齢化をも視野に入れた地域医療の未来を見据えているらしい

―――――

緩和ケアを一か月回ってみて思うのは、緩和ケアの対象患者のほぼ大部分が高齢者、それも70歳以上で後期高齢者の割合が多いということだ

無論、癌そのものが年齢を重ねる程に増えていくのだからその通りだろう

それ故に癌と高齢者は密な関係性であると言っていい

高齢者の癌患者ともなれば、既に治療できる域に無くBSCとなるケースも少なくない

例え手術を行ったとしても、入院に伴う認知症の進行であったり、臥床や栄養不良に伴うADLの低下により生命予後が伸びたとしても術前よりも元気では無くなることもある

進行がんであればその病状に伴い徐々に活動性も奪われていき、自立した生活が困難となる

介護してくれる身寄りが無ければ福祉サービスを受ける必要性が出てくるし、病院通いとなり、最後は看取り入院、そうした施設へといった流れを他科でなんどか見てきた

その中での「痛み」「苦しみ」を焦点に置いたのが緩和ケアであるとするならば、廃用性に自立した生活が困難となったこれといった疾患を持たない高齢者のいきつく先はADLに応じた「施設」となるのだろうか

不本意な苦しみに晒され無くて良いように、緩和ケア患者さんの安否を確認したり、駆け込み寺となる電話サービスは、患者さんにとっては心強いものに違いない

では、緩和ケアの対象でない、ADLの低下もない、一人暮らしである程度自立している高齢者の駆け込み寺は何なのか、と考えてしまうが、きっと私が議論する必要もない程既に対策が進んでおり考えられていないのだろう

こと鶴岡に限れば、ほとんどの市民が荘内病院にかかったことがあり、未然に拾い上げることが出来ている症例も多いのではなかろうか。その点ではある程度安心できるところでもある。

大きく脱線したが、高齢者と緩和ケアは切っても切り離せない

認知機能も落ちて行けば、自分の痛みの評価も出来ず、薬も満足に自分で飲めない。認知機能とアドヒアランスは直下の問題だ。

いくら自宅で過ごしたくても、自分では出来ない

これが障壁となる症例も私があまり見たことがないだけで多いことだろう

加えて誰かいたとしても解決できないこともある

家族の理解が追い付かず、協力的であってもバックアップとしては足りないことがある

また、退院カンファレンスに出て分かったのだが、現段階では問題にはなっていないが、訪問看護、訪問介護も需要過多になればそれもまた問題となる。高齢者のおむつ交換をする為だけに、雇われる職種があるなどと現代っ子は知らないことだろう

また、往診に応じてくれる医師の高齢化がどんどん進んでいけば、集約化する施設が必要ともなっていくのだろうか

総じてERでよく耳にする「医療介護難民状態」を未然に防ぐためにはどうすべきか、という直近の難題の本質に緩和ケア研修を通じて気付いてしまった、いや、気付く為に回っていたのかもしれない。

答えの方向性としては述べた通りの二つあると考える

一つは緩和ケアチームのように、電話等の駆け込み寺であったり訪問診療を充実させていくということ

しかし、開業医の数が減り訪問診療もままならないようになっていけば患者さんの理想となる自宅での生活を支持できなくなる。

となればもう一つの、入居施設、医療施設を拡充させていく必要が出てくる

しかしこれには金が必要となるし、大型施設ともなればそれなりの人的資源が必要となる

入居者同士での協力を前提とした、老老施設が生まれる可能性もあるか

高齢者の割合が増えれば増えるほど、高齢者は弱者で無くなっていく

社会の主役としてもう一花咲かせる時が来るのかもしれない

緩和ケアチームの電話対応は、こうした社会の移り変わりを容易に妄想させた

だがそんな来るか来ないかの未来を考えたところで、今は良くならない

今患者さんの為に出来ることを考え、患者さんの今を出来る範囲で最善にする努力をする緩和ケアチームのような気概があれば、この地域の医療に対して安心出来ることだろう

この地域の未来に関しては、然るべきところが頑張って考えてくれることを信じたい

2年目研修医 佐藤

2019年08月28日

研修医

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